8月24日、名古屋愛知長老教会は第四主日礼拝をささげました。説教はルカの福音書10章「善きサマリヤ人」から語られました。
ルカ10章は私たちの視線をイエス・キリストに向けさせます。マリヤが御言葉に聞く姿勢は「必要なただ一つのこと」として主に喜ばれ、またイエスを信じ従う人々は「幼子」と呼ばれ祝福されました。幼子のように自分の力を誇らず、ただ神の義に頼る者が永遠の命に入るのです。
しかし律法学者は、律法の行いで命を得られると考えてイエスに挑みました。聖書は一貫して、命は行いによらず信仰によって与えられると語っています。律法は「神を愛し、人を愛せよ」と命じますが、罪人にはそれを完全に果たす力はありません。律法は人を救うのではなく、自分の罪を気づかせ、キリストへ導く案内役にすぎません。
善きサマリヤ人の譬えは、この律法の限界を示します。祭司やレビ人は倒れた人を救えませんでしたが、助けは敵とされたサマリヤ人から来ました。この姿は、拒まれ、憎まれながらも真の救いを与えられたイエス・キリストを指し示しています。永遠の命は律法からではなく、ただキリストから与えられるのです。
またマタイ19章の金持ちの青年も、富という「自己義」にとらわれ、イエスに従うことができませんでした。見た目には立派な行いを持っていても、それは神の義に到達するものではありませんでした。主は「子どものようにならなければ神の国に入れない」と語られました。救いの道はただ一つ、自分の義を捨て、神の義を信じ受け入れることです。
私たちもまた、自分の義ではなくキリストに示された神の義により頼む者でありたいと願います。永遠の命は神からの恵みの贈り物であり、イエス・キリストを通して私たちに与えられます。
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