ハレルヤ。主の御名を心から賛美いたします。
1月11日、愛知長老教会では主日礼拝がささげられ、マタイの福音書25章に記されている「十人の娘たちのたとえ」から、御言葉が語られました。以下は、その説教の要約です。
1.待つことの意味と「備え続ける生き方」
説教では、私たちが生きる現代社会が「待つこと」を苦手とする時代であることに触れながら、聖書が教える「待つ」という姿勢の積極的な意味が示されました。聖書において「待つ」とは、何も生み出さない時間ではなく、信仰が養われ、成熟へと導かれていく大切な過程です。主の再臨を待ち望む終末的な生き方も同じであり、それはただ受け身で時を待つことではなく、「備え続ける生き方」を意味しています。
イエス様は十人の娘たちのたとえを通して、主を迎えるためには十分な備えが必要であることを教えられました。説教では、備えとは一時的な行動ではなく、日々の歩みそのものが主をお迎えする準備となるような生き方であることが強調されました。
2.油の象徴と聖霊に満たされる人生
このたとえの中で重要な鍵となるのが「油」です。五人の賢い娘と五人の愚かな娘を分けた違いは、予備の油を備えていたかどうかでした。この油は、聖書的には聖霊を象徴しています。つまり、主を迎えるための最善の備えとは、聖霊に満たされ続ける人生であるということです。
花婿の到来が遅れ、夜中に及んだという場面は、神の時と人の期待が必ずしも一致しない現実を示しています。だからこそ、あらかじめ整えられた状態を保つことが大切なのです。説教では、ヨセフやエリヤの生き方を例に挙げながら、神の時を見分ける知恵は、常に神の霊に満たされて歩む者に与えられることが語られました。聖霊に満たされるとは、一時的な信仰の高まりではなく、日々の生き方そのものなのです。
3.主との愛の関係としての備え
さらに説教は、聖霊に満たされることを「キリストとの愛の関係」として描き出しました。聖霊はキリストの霊であり、主との愛の関係が深められていくとき、人生は水がぶどう酒に変えられたように、喜びと味わいに満ちたものへと変えられていきます。油を備えるとは、主を主と告白し、人生の中で最も尊いものを主にささげて生きることです。香油を主に注いだマリヤの姿は、その象徴として語られました。
一方で、イスカリオテ・ユダはマリヤの行為の意味を理解できず、彼女の福音的な「聖なる浪費」を批判しました。ユダの姿勢は、世俗的な価値観にとらわれたものでした。もし私たちがそのような価値観を優先してしまうなら、主の愛の尊さや福音の美しさから離れ、主に香油を注ぐ者ではなくなってしまうかもしれません。終末を迎えるにあたっての正しい姿勢とは、主の尊さを心から理解し、時には惜しみなく「聖なる浪費」とも言える歩みを選び取っていく生き方であるとも言えるでしょう。
終わりの時に、私たちが婚礼の祝宴に招かれるかどうかは、油が満たされているかどうかにかかっています。主は「目を覚ましていなさい」と語られました。
愛と御言葉に満たされ、聖霊に導かれて日々を歩むことこそが、主をお迎えするための最も確かな備えなのです。
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