ルカ福音書24章27-35節
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。(引用:新改訳聖書第三版)
復活されたイエス様が現れた場面は、聖書中、他にもあります。ヨハネの福音書20章29節では、トマスの前に現れたイエス様は彼にこうおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様の弟子たちが復活されたイエス様を目撃する中、イエス様は「私のからだに手を伸ばして、傷跡に触れてみなさい」とおっしゃる一方で、「見ずに信じる者は幸いです。」ともおっしゃいました。
理性や科学の分析では、愛を悟ることはできません。「神の啓示」を解き明かすのは、「科学や理性」でなく「愛」です。神の啓示であるイエス様の全生涯は、私たちに向けられた愛でした。愛は愛で通じ、心で受け止める時、初めて自分のものとなります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ5:10)」。この神からの愛をイエス様を通して分かる時、イエス様の死も、復活も、私の死となり、私の復活となるのです。エマオに向かう弟子たちがまさにそうでした。実際、彼らは復活したイエス様を見たのに、イエス様だと分からなかった人々でした。しかしイエス様のすべてのことは神が私に下さった愛だと理解できた時、心が熱くなりました。心が熱くなったのは、主の死が完全な「愛」だと分かったからでした。イエス様の十字架の死は、わたしに「永遠のいのち」を与えるための死だった…この悟りが開かれた瞬間、復活した主のお姿を認めることができたのです。
十字架の死を通過しない復活はなく、復活という完成のない十字架は意味を成しません。
パンが裂かれたことが、十字架の死ならば、パンが与えられたことは、わたしに与えられる永遠のいのちと救いの完成です。これが神が私たちのために備えられた愛だと分かった時、心の中で、復活の主が、彼らの「復活信仰」の確信となるのです。彼らが十字架の死の意味を分かりだした時、どんなに彼らは心が燃え出したのですか?イエス様の十字架の死は、わたしに「永遠のいのち」をもたらすために、ご自分の命を贖いのいけにえとして差し出した死であり、神の御心をなしとげた御子の完全な従順の死でした。わたしが「いのちをえて救われるための」「御子の死」でした。これを悟った二人の心は、すぐに熱くなりました。そうして人生にいのちの新たな希望に燃えだしたのです。その時から彼らは死から「いのちへ塗り替えられた新しい歴史」を、「復活信仰」を燃やしながら、生きる者とならされたのです。復活は、主の死の意味を確信させ、いのちの歴史を歩む確信と信仰になったのです。そうして彼らの中に復活信仰が生まれました。
彼らは「すぐさまエルサレムに戻ったとあります。」イエスの復活に救いとその完成を核心する「復活信仰」は、彼らを再び「歴史」の上に立たせ、「使命の立場」へと回復させることになりました。イエス様の十字架の死と復活は、クリスチャンにとって信仰の核心です。信じる者の希望の確信がこの中に込められています。イエスキリストの十字架の死と復活を見上げて参りましょう。
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