柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(新改訳聖書:マタイの福音書5:5)
(説教抜粋)
「八福」とも称される一連の御言葉(マタイの福音書5章3-10節)の中に、この「柔和なものは幸いです」の御言葉もおさめられています。すべての御言葉が巧みに関連し合いながら、天国の民として生きる生き方を示してくださる御言葉です。この教えは、世の価値観や風習とはまさに逆を行く教えではあります。しかし神の形に造られた人間にとって、この教えに歩む道こそが、真理を見出す道であることを主は示してくださりました。
一般的な在り方では、地上の「土地」を占領し、支配するにはまさに「力」によると思いがちです。しかし主イエスは、天国ではそうではないとおっしゃり、「柔和な者」にこそ地を受け継ぐ祝福があるのだとおっしゃったのです。天はもちろんのこと、この地上も神様が治め、支配されてある世界であります。すべてのものが神にあることを信じ、「柔和なものは幸いです」の御言葉に歩むクリスチャンでありたいと思います。
旧約聖書にある土地を受け継ぐ歴史的な出来事の一つに、約束の地の話があります。モーセによってエジプトを脱出したイスラエルの民は、意気揚々と約束の地にのぼっていきましたが、しかし当時の第一世代たちはみな、すべて荒野で滅び、約束の土地を受け継ぐことができなかったのです。
詩篇95篇8節を見れば、当時のイスラエルの民が「心をかたくなにした」と記録されています。「柔和」とは、心の柔らかさをイメージできますが、「頑なさ」とは心が硬くなり、閉ざされてしまった状態をイメージできます。イスラエルの民たちは、荒野を通過する中で、主なる神様を疑い、荒野の生活に怒りを発してしまったのでした。その怒りこそ、彼らの心をかたくなにさせた原因であったのです。
かのモーセも「怒り」によって、約束の地に入る事を許可されなかった一人です。怒り、それは「血の気」とも言えます。柔和の反対は怒りであり、血の気です。モーセほど神様に認められた「柔和な人」はいなかったのです。にもかかわらず彼は度重なるイスラエルの同胞たちからの怒り、反感、不満を被り、彼自身もまた「怒り」に心を飲み込まれてしまったのでした。
怒りと血気は、祝福を失う非常に恐ろしい心の”敵”です。怒りと血気は、柔和な心を頑なに変え、破壊し、神様から私たちの信仰を遠ざける原因になるかもしれません。聖書には怒りを治めることの教えが、たくさん散りばめられています。
かのイスラエルの王ダビデは、その生活を見れば、怒りたくなるしかないような不条理な人生を生き抜いた戦士でもあります。彼はたくさんの詩を残しましたが、有名な詩の一つに「主はわが羊飼い(詩篇23篇)」があります。彼は人生のあらゆる逆境と苦しみの最中にあっても、神の恵みと慈しみをこよなく愛し讃えていた人物でした。
怒りたくなるような人生の逆境の中で、彼の心が常に柔和であり続けたのは、「主の慈しみと恵が私を追いかけてくるでしょう」と歌うことができた主への完全な信頼と愛とが、彼の生活に満ちていたからではないでしょうか。私はそのように思います。
主は私の満足です。神は常に私たちに最善を与えてくださる善き神様です。その神が私たちの神となってくださること、そこに至福に至る幸福の秘密があるのです。
神様は皆様を愛しておられます。この愛の中にとどまりましょう。その愛に平安を得て、常に柔和な心を保ち、神の祝福の地を受け継ぐ幸いな人々になろうではありませんか。
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