メッセージ

まことの礼拝者(2)


しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(新改訳聖書:ヨハネの福音書4:23-24)


(説教抜粋)

まことの礼拝者…それはどんな人のことでしょうか?また神様はどんな礼拝をまことの礼拝として求めておられるのでしょうか?当時、信仰熱心だったイスラエルの宗教指導者たちに、イエス様はこう諭しておられます。

”『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。”(マタイの福音書9章13節)

当時、イスラエルの人々は、神様を礼拝する時、動物を犠牲にした供え物(いけにえ)を捧げていました。しかし神様ご自身さえも、動物の犠牲を願っておられませんでした。実はこれは悲しい話です。人間は聖なる神様によって創造されたいわば「神の子」なのに、動物のいのちを犠牲としなければ、その聖なる神様を礼拝しお会いすることさえできなくなった存在なのです。これが人間が堕落して、罪ある者となった結果でした。罪のない動物が彼らの罪の身代わりになって、彼らの罪を一時的にでも贖うことによって、人は聖なるものとして神様にお会いすることができたのです。

イスラエルの人々が神殿に動物の犠牲をささげながら、神様はどれほど心を痛めながらこの様子をご覧になられたのでしょう。罪ある人間たちの姿に心痛めながら、同じく血を流す動物たちに神様は二重にくるしまれたかもしれません。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』というイエス様の言葉から、動物の犠牲を捧げる人間たちをご覧になっていた神様の、痛々しい心を感じます。これは旧約聖書のホセア書6章6節を用いられた御言葉です。

ホセア書6章6節を2017年度版の新改訳聖書では、以下のように新しい翻訳が適用されてありました。


ホセア書6章6節
”わたしが喜びとするのは真実の愛。
いけにえではない。全焼のささげもの
よりむしろ神を知ることである。”


神様が欲しいのはいけにえではありません。むしろ神様が人間に求めていたのは「真実の愛」でした。どんなに犠牲の代償を払ったとしても、人間たちを罪から救い出し、ご自分の子供として取り戻すことをあきらめない神様のその心、その心こそ、まさに「真実の愛」でした。永遠に変わらない真実の愛で、神様は私たち人間を愛しておられます。痛々しい命の犠牲と血が流されるその瞬間、罪の代償が「死」であることを人間たちが学び、彼らが罪から離れ、神様に立ち戻る新しい人生を生きることを、神様ご自身は願っておられたはずです。同時に、数多くの犠牲の代償を払ったとしても、人間を取り戻したい神様のその心を、礼拝する者たちは知るべきだったでしょう。礼拝者に向けられた神様のその心、その真実な愛の心で、礼拝者を招いておられる神様の愛を、礼拝者である人間たちは知り、学ぶべきだったのです。

でもこのホセア書の御言葉の背景にある人間の姿は、愛の神様を知るような姿ではなかったようです。むしろ犠牲を捧げることが当たり前になって、形式的な儀式化されたものとなり、犠牲に込められている神様の痛みも、愛も、人間たちへの悲しみも分からないまま、礼拝を繰り返していた当時の人々の姿があったようです。これはもちろん旧約時代のお話です。だけど新約時代を生きる私たちクリスチャンたちにも十分にあり得ることかもしれません。

イエス・キリストの尊い命の犠牲と血の代価によって、罪が赦された私たちクリスチャンは、大胆に神様の前に神様を礼拝できる者となりました。だけどもしそのクリスチャンたちが、イエスキリストの犠牲の尊さを分からず、その犠牲にある神様の痛み、悲しみ、愛を分からないまま、毎週の礼拝を繰り返していたとしたらどうでしょうか?たとえ救われた者だと言っても、彼らのするその礼拝の姿は、神様の心を苦しめることになっていないでしょうか?私たちクリスチャンは、イエス様の犠牲を通して、神様の真実の愛を悟り、真実な愛で神様に応答していく、そのような礼拝を捧げなければなりません。

ローマ書12章1-2節を見ると、イエスキリストの犠牲によって救われたクリスチャンは、動物の犠牲ではなく、自分自身を聖なる供え物として、神様にお捧げしなさいと言っています。これは神様の真実な愛を受け取ったクリスチャンたちが、神様の愛を知り、イエス様のような愛の人生を生きる人生に生まれ変わり、以前と違う全く新しいくなった人生そのものを、神様に捧げなさいと教えている聖句なのです。イエス様の人生に倣い、イエス様のように生きようとすること。これこそが聖なる人生であり、その始まりです。(そして神ご自身が御言葉をもって、私たちを教え、私たちの人生を聖なるものへと変えてくださるのです。)これこそが神様が求めておられる「まことの礼拝者の姿」であり、「まことの礼拝の姿」なのです。

ご自分の息子さえも私たち人間の罪のために犠牲にされた神様の愛、また自らを罪のための供え物としてご自分を捧げられた神の息子イエスキリストの愛。ここにこそ私たち人間に向けられたまことの愛があるのです。この愛を知って、神に近づくことこそ、まことの礼拝への道です。

愛の神様が待つ礼拝に私たちが真実な愛で参加し、この愛に励まされて聖なる人生を歩むそのような礼拝者になりたいと思います。

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