メッセージ

まことの礼拝者(1)


しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(新改訳聖書:ヨハネの福音書4章23-24節)


(説教抜粋)


「礼拝とは?」と聞かれたらどのように答えればよいのでしょうか?語りつくせないほど壮大で深淵なテーマになりそうです。ただもっと実際的な面で答えていいならば、礼拝とは「神様との出会い」だと言えそうです。

人間同士でもその時々の「出会い」を大切にしながら、互いに関係を深めていきますよね。なのに出会うチャンスをほったらかしにしたり、また出会っても心が通じ合わなかったら、互いの関係はそれ以上、成長することはできないですよね。紙様との関係もそれと似ていますが、礼拝という神との特別な出会いの時間が、長い人生の中で、神との関係を築く大切な機会となっているのです。

イエス様は、「神ご自身が、真の礼拝者を求めておられる」とおっしゃいました。神の息子であるイエスキリストは、真の礼拝者を探しておられる神様の心をよくご存じです。礼拝という特別な出会いは、神ご自身が私たち人間に深く求めておられる「大切な出会い」でもあるのです。

礼拝は特別な出会いの時間です。神様ほど特別な方はおられません。特別な方と、特別な時間、特別な場所で出会う礼拝。その礼拝は、日常とは異なる非日常の、最も特別な聖なる時間になることでしょう。その時、私たちの心も一緒に日常から切り離し、ただ神様だけを求める聖なる真実な心で、神様をお迎えするのです。

しかしまたある反面、私たちから神様に会うことはできません。神様ご自身が会ってくださる時にだけ、私たちは会えるのです。礼拝とは「神様との約束の時間」です。礼拝という出会いが信じる者に可能となっているのは、神様が会ってくださると誓ってくださった約束があるためです。その約束を通して、神様は私たちを礼拝に招いておられるのです。

それはまるで一国の大統領が一人の庶民をお招きするようなものなのです。庶民にすぎない一人が、どんなに大統領に会おうとしても会うことができません。ただ大統領ご自身が「会おう」と言ってくださるとき、庶民である私たちでも大統領にお会いできるのです。彼が「この日、この時間に、あなたと会おう」という約束があるとき、私たちは彼と出会うことができるのです。神様との礼拝はまさにそのようなものかもしれません。神ご自身からの招待を受けて、私たち人間は礼拝という特別な「出会い」の場に立つことができるのです。神は私たち一人一人を招いておられます。神様との出会い、その特別な時間を体験する皆様となられますように。

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