2026年10月11日
主の御名を讃えましょう。10月11日の、愛知長老教会の主日礼拝説教をご案内いたします。10月11日、名古屋愛知長老教会の主日礼拝説教では、へブル人への手紙3章7–19節から、「今日、御声を聞くなら」と題して御言葉が語られました。説教では、荒野のイスラエルの不信仰を通して、神の御声を聞くことの意味と、困難の中でも神の約束を信頼し、信仰によって応答し続けることの大切さが示されました。
今日、御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない
へブル書は、詩篇95篇を引用し、「聖霊が言われるとおりです」と語ります。これは、荒野のイスラエルの出来事が単なる過去の記録ではなく、聖霊を通して今日の神の民にも語りかける御言葉であることを示しています。イスラエルは四十年にわたり神の御業を見ながらも、その約束を信頼できず、安息に入ることができませんでした。神の恵みを経験することと、神ご自身を信頼することは同じではありません。「今日」とは、神の御声が届く今、信仰による応答へと招かれている時なのです。
不信仰は心をかたくなにする
著者は、罪の欺きによって心がかたくなにならないよう、日々互いに励まし合うことを勧めます。不信仰とは、単に神の存在を否定することではなく、困難の中で神の約束を信頼できなくなることでもあります。信仰は現実の問題や恐れを見ないふりをすることではなく、それらを認めながらも、神の約束を拠り所とすることです。罪はもっともらしい理由を通して私たちを神から遠ざけます。だからこそ教会は、共に御言葉を聞き、祈り、互いに神の約束を思い起こさせながら、信仰にとどまるよう励まし合う共同体なのです。
神の約束を信頼することが、御声への真の応答である
イスラエルが安息に入れなかった理由について、へブル書は「不従順」と「不信仰」を結びつけています。彼らは神の救いを経験しながらも、神の約束を信頼せず、従おうとしませんでした。ここから分かるのは、神が求めておられるのは、外面的な行動を整えることだけではなく、御言葉を語られる神ご自身を信頼し、応答することだという点です。信仰と従順は切り離せません。神を信頼する心から、その御言葉に従う歩みが生まれます。だからこそ私たちは、今日、御声を聞くたびに神の約束に信頼し、信仰によって応答し続けるよう招かれているのです。
へブル書が私たちに問いかけるのは、神の御業をどれほど経験したかだけではなく、今、神の約束を信頼しているかということです。困難や不安がなくなることが信仰なのではありません。困難のただ中でも、神の真実さに望みを置くことが信仰です。そして、その歩みは一人だけの努力に委ねられているのではなく、教会の交わりの中で互いに励まし合いながら続けられます。神が今日も御声を聞かせてくださる恵みを覚え、心をかたくなにすることなく、主の約束を信頼して歩み続けましょう。
参照:新改訳聖書第三版
へブル人への手紙参照:新改訳聖書第三版
へブル人への手紙3章7–19節
7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
